まことに暑い(尾崎放哉)
友を送りて雨音に追はれてもどる 尾崎放哉
英訳してみると、I send a friend, and I am pressed by wind and rain and come back.
とでもなろうか。この自由律俳句には無限の哀愁がある。「もどった」後は彼は友のことをあれこれ考えていたに違いない。
少雨。(モルモン書)
見よ、主の日が来る。憤りと激しい怒りを伴う容赦のない日が来て、地を荒れ廃れさせる。そして主は、そこにいた悪人を滅ぼされる。「モルモン書」
モルモン書は旧約聖書に似ている。そこにいる神は怒りの神である。人間はただ従いへりくだるしかない。何と言っても人間は塵から作られたのである。そうなればこそ、恭順であることが求められ、その生涯はひたすら試しの生涯である。身に覚えがないといっても始まらない。我々は裁きの日に震え上がる運命にある。そのために善行を為しへりくだるのならば、この構図は実にエゴイズム以外の何物でもない。誰もが自分だけは救われたいのである。モルモン書を読む者はこうした屁理屈を透過しなければならない。そんなものに拘泥してはならない。信仰に理屈は不要である。
雨。(テリーホワイト)
マックは煙草を地面に落として踵で踏みつぶした。『おれもおまえさんといっしょだと、そう不安を感じないんだ』 テリーホワイト「真夜中の相棒」
もとペーパーブックに掲載されていたこの手の小説、ハードボイルド、クライム・ノアールというジャンルは決して馬鹿にできない。細部にはっとするような文章がある。この同性愛的な小説はまだおわりまで読んでいないがどうやら悲劇的結末を迎えそうである。
小雨(シュタイナー)
霊学には単なる悟性だけでは判断しえぬような部分も当然存在する。けれども悟性だけではなく、健全な感情もまた真理の判定者となることができる。 シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」
ここにおいてシュタイナーはやや譲歩しているかのようだ。しかしこの現世の常識と真理はそれほど矛盾しないのだと考えた方がいいのだろう。真理が霊と肉との間に多大な乖離を示すならば我々はついにはこの肉体を捨てなければならないだろう。大事なのはこの肉体のまま真理を会得することだ。