少雨。(モルモン書)

見よ、主の日が来る。憤りと激しい怒りを伴う容赦のない日が来て、地を荒れ廃れさせる。そして主は、そこにいた悪人を滅ぼされる。「モルモン書」

 

モルモン書は旧約聖書に似ている。そこにいる神は怒りの神である。人間はただ従いへりくだるしかない。何と言っても人間は塵から作られたのである。そうなればこそ、恭順であることが求められ、その生涯はひたすら試しの生涯である。身に覚えがないといっても始まらない。我々は裁きの日に震え上がる運命にある。そのために善行を為しへりくだるのならば、この構図は実にエゴイズム以外の何物でもない。誰もが自分だけは救われたいのである。モルモン書を読む者はこうした屁理屈を透過しなければならない。そんなものに拘泥してはならない。信仰に理屈は不要である。

 

 

雨。(テリーホワイト)

マックは煙草を地面に落として踵で踏みつぶした。『おれもおまえさんといっしょだと、そう不安を感じないんだ』  テリーホワイト「真夜中の相棒」

 

もとペーパーブックに掲載されていたこの手の小説、ハードボイルド、クライム・ノアールというジャンルは決して馬鹿にできない。細部にはっとするような文章がある。この同性愛的な小説はまだおわりまで読んでいないがどうやら悲劇的結末を迎えそうである。

梅雨。(モンテーニュ)

結局、われわれの存在にも、事物の存在にも、何一つ恒常なものはない。われわれも、われわれの判断も、そしてすべての死すべきものも、絶えず流転する。したがって確実なことは一つとしてたがいに立証されえない。判断するものも、判断されるものも絶えざる変化と動揺のなかにあるからである。  モンテーニュ「エセー」

 

結局、私はピュロン懐疑論にくみするものであり、到底一つの主張に拘泥することはできないだろう。何かの主張にこだわるということは、一つの誤謬であり暴力でありもしくは自己欺瞞なのである。

時々、雨(デリダ)

正義とは不可能なものの経験である。  デリダ「法の力」

 

解決不可能なアポリアを経験することそれこそが正義の経験なのだというデリダの主張は分かるような分からないような気もする。しかし正義とはこのバタイユ的な不可能性を生きることに他ならない。そして言うまでもなく法の根底には無根拠としての暴力がうごめいている。決断することがすなわち不可能性を生きることになる。正義は待ってくれない。我々はただその暴力を生きるしかない。決定不可能なものの幽霊を内在するものとして。

小雨(シュタイナー)

霊学には単なる悟性だけでは判断しえぬような部分も当然存在する。けれども悟性だけではなく、健全な感情もまた真理の判定者となることができる。  シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」

 

ここにおいてシュタイナーはやや譲歩しているかのようだ。しかしこの現世の常識と真理はそれほど矛盾しないのだと考えた方がいいのだろう。真理が霊と肉との間に多大な乖離を示すならば我々はついにはこの肉体を捨てなければならないだろう。大事なのはこの肉体のまま真理を会得することだ。