静かなるかげを動かし客に茶をつぐ 尾崎放哉 英語では I move a quiet shadow and pour a visitor tea. とでもなろうか。ただこれだけの簡潔な自由律俳句のなかに何という澄み切った境地が現れていることであろうか。
友を送りて雨音に追はれてもどる 尾崎放哉 英訳してみると、I send a friend, and I am pressed by wind and rain and come back. とでもなろうか。この自由律俳句には無限の哀愁がある。「もどった」後は彼は友のことをあれこれ考えていたに違いない。
見よ、主の日が来る。憤りと激しい怒りを伴う容赦のない日が来て、地を荒れ廃れさせる。そして主は、そこにいた悪人を滅ぼされる。「モルモン書」 モルモン書は旧約聖書に似ている。そこにいる神は怒りの神である。人間はただ従いへりくだるしかない。何と言…
マックは煙草を地面に落として踵で踏みつぶした。『おれもおまえさんといっしょだと、そう不安を感じないんだ』 テリーホワイト「真夜中の相棒」 もとペーパーブックに掲載されていたこの手の小説、ハードボイルド、クライム・ノアールというジャンルは決し…
結局、われわれの存在にも、事物の存在にも、何一つ恒常なものはない。われわれも、われわれの判断も、そしてすべての死すべきものも、絶えず流転する。したがって確実なことは一つとしてたがいに立証されえない。判断するものも、判断されるものも絶えざる…
正義とは不可能なものの経験である。 デリダ「法の力」 解決不可能なアポリアを経験することそれこそが正義の経験なのだというデリダの主張は分かるような分からないような気もする。しかし正義とはこのバタイユ的な不可能性を生きることに他ならない。そし…
霊学には単なる悟性だけでは判断しえぬような部分も当然存在する。けれども悟性だけではなく、健全な感情もまた真理の判定者となることができる。 シュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」 ここにおいてシュタイナーはやや譲歩しているか…
死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。 マルクス・アウレリウス「自省録」 これを真剣に考える者にとって死とは好ましいものではあるまいか。何も恐れる必要はないのではないか。実際、我々の多…
宇宙は神の宇宙である。神は無限の叡智をもって、日に日に新しきものを産み出し給いつつあるのである。それゆえに宇宙は永遠の進歩であり、新生であり、若返りであるのである。 谷口雅春「真理の吟唱」 ここで永遠に若返る宇宙を提示することで西欧的な「完…
内なるものも、外なるものも、すべて神の愛の顕現であるがゆえに、私を祝福し、私を愛し、私を生かし、善き事のみが私の周囲にあらわれるのである。 谷口雅春「真理の吟唱」 生長の家創始者谷口雅春の言葉はそれを繰り返し念じることで「言霊」となり、実際…
自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。 エピクロス 人はこの言葉をよく味わうべきである。自己充足の中にこそ幸福はあるのであって、それは自らを騙すことでもあるだろう。我々はとにかく高尚な自己充足の道をめざすべきであり、低俗な自己充足…
認識するとは、言いかえれば、一切の諸事物を私たちに好都合なように理解してすることである。 ニーチェ「生成の無垢」 ニーチェの思想はまさにこの短文に凝縮され得るであろう。ニーチェの一切の価値の価値転換は要するに相対主義をあらゆるものに当てはめ…
すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。きわめて高齢に達して死ぬ者も結局は夭折した者と同じことになってしまうであろう。 マルクス・アウレリウス「自省録」 我々はこの言葉を…
自己に素因のないものごとを、人は感じることはできない、素因というものは、その人が過去または現世において実際に体験した因縁である。 出口日出麿「生きがいの探求」 素因というは遺伝子・アーラヤ識のことだと思う。要するに過去世からの因縁だ。そんな…
自分がつまらなく思えたときは、ひじょうに進歩したときだ。 出口日出麿「生きがいの探求」 誰もが自分をひとかどの人物だと思いたいし、現に思っているものである。ところが真に実力のある者はかえってへりくだっているものだ。自分はまだまだ未熟だと彼は…
幸福とは魂と魂との共鳴にある 出口日出麿「生きがいの探求」 人間は誰でも友を求めている。友との間の魂と魂の触れ合い、それは友でなくても良いだろう。心だけでは不十分だ。魂と魂が共鳴したところに「ああ、この世に生まれてよかった」との確信と安堵が…