梅雨(マルクス・アウレリウス)

死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。  マルクス・アウレリウス「自省録」

 

これを真剣に考える者にとって死とは好ましいものではあるまいか。何も恐れる必要はないのではないか。実際、我々の多くはこれらの衝動や不安で居ても立っても居られぬ部分があるのではないか。そうなれば我々は一切のものからの解放を一方で憧憬しているのである。これは単なるペシミズムではないだろう。むしろそれはより良き状態への転向とも言い得るのではないか。

蒸し暑い(谷口雅春)

宇宙は神の宇宙である。神は無限の叡智をもって、日に日に新しきものを産み出し給いつつあるのである。それゆえに宇宙は永遠の進歩であり、新生であり、若返りであるのである。  谷口雅春「真理の吟唱」

 

ここで永遠に若返る宇宙を提示することで西欧的な「完成に向かいつつある世界」という概念を見事に打ち破っている。谷口雅春はさすが「生長の家創始者だけあってさらりと美しい言葉で真理を描写している。真理は、もし真理と言うものがあるのだとしたら、こうでなければならないという視点を彼は見事に提示してみせる。彼はまことに稀有な存在であった。世界は日々新しくならなければならず、それはつまり「常に既に」というあの「永遠の哲学」を我々に思い起こさせる。

小雨。(谷口雅春)

内なるものも、外なるものも、すべて神の愛の顕現であるがゆえに、私を祝福し、私を愛し、私を生かし、善き事のみが私の周囲にあらわれるのである。   谷口雅春「真理の吟唱」

 

生長の家創始者谷口雅春の言葉はそれを繰り返し念じることで「言霊」となり、実際に物理的にその人の環境を良くする。いわば想念により世界を自分の方へ捻じ曲げる。これは思想というよりもはや執念であり、彼は一切の悪を遠ざけるのである。どんなことにも悲観を見つけることなく常に真善美のみを観ずる生活であり、本当にこの心境になりさえすればたとえそれが単なる「思い込み」に過ぎないにせよ、生活は良くなるに違いないのである。これこそまさに「宗教の効果」ではある。

曇天、時々晴れ。(エピクロス)

自己充足は、あらゆる富のうちの最大のものである。 

エピクロス

 

 

人はこの言葉をよく味わうべきである。自己充足の中にこそ幸福はあるのであって、それは自らを騙すことでもあるだろう。我々はとにかく高尚な自己充足の道をめざすべきであり、低俗な自己充足など目もくれない力と統御が必要である。

蒸し暑い!(ニーチェ)

認識するとは、言いかえれば、一切の諸事物を私たちに好都合なように理解してすることである。     ニーチェ「生成の無垢」

 

ニーチェの思想はまさにこの短文に凝縮され得るであろう。ニーチェの一切の価値の価値転換は要するに相対主義をあらゆるものに当てはめたと言える。当然的に真理など存在しない。この世界は何処までも相対的であり、認識者は自己の力に合わせた世界を見積もるだけである。この考え方は文字通り世界を震撼させた。

 

曇天。蒸し暑し。(アルクス・アウレリウス)

すべて君の見ているものはまもなく消滅してしまい、その消滅するところを見ている人間自身もまもなく消滅してしまう。きわめて高齢に達して死ぬ者も結局は夭折した者と同じことになってしまうであろう。     

マルクス・アウレリウス「自省録」

 

 

我々はこの言葉を肝に銘じるべきだろう。いわば我々は通常道端で見ている人、いや普段会うような人でさえ、所詮まもなく消えてなくなってしまうわけであり、そう見れば腹の立つこともなくなるだろう。だから今ここで邂逅する人間同士というのは一つの奇跡であり、悪い言い方をすれば何かの錯誤でさえある。とにかく我々はすぐに消え去るこの人生を貴重なものと捉えなければならない。

初夏らしい天気なり(出口日出麿)

自己に素因のないものごとを、人は感じることはできない、素因というものは、その人が過去または現世において実際に体験した因縁である。   出口日出麿「生きがいの探求」

 

素因というは遺伝子・アーラヤ識のことだと思う。要するに過去世からの因縁だ。そんなものは無いと言った所で我々はみな先祖を持つ。ある日ポッと地上に湧いてきたわけではない。その過去世というのはそうした先祖の人たちの宿業であり、これはもはやどうしようもない部分もある。その人たちの一部が紛れもなく我々のなかに科学的にも定着しており、あなたがある物事に強く惹かれざるを得ないのも故なきことではない。それを人は貴いことだとみなければならないだろう。